私たちの形
父の誕生日で、会社帰りに食事をした。父の希望で、ベトナム料理。
数年前に父と二人でベトナム旅行をしたときのことを思い出した。
父と話しながら、旅行したり、ご飯を一緒に食べていることを不思議に思う。
私の家族はそれぞれちょっとしたボタンのかけ違いで、結構前からばらばらだ。
でも別に互いを恨み合うこともなく、それぞれがそれぞれで生活している。
もちろん、ばらばらになる前はしんどい時期もあったけれど。
私たちは兄弟星みたいだ。
それぞれ遠い場所にいるけれど、もともと同じ塵から生まれた恒星のよう。
でもそんなゆるい繋がりも、時間の経過とともにほどけてゆくのだろう。
それでも、互いが互いの幸せを願っている。きっと誰よりも、一番。
「いい時間だったよ」帰り際、父は嬉しそうにそう言った。
父の嬉しそうな顔が、私をほっと幸せにする。
帰りの電車で、ゆるやかにほどけてゆく私たちを思ってすこし泣いた。
永遠なんてものはないことはわかっている。
それでも祈っている。お父さん、お母さん、妹に楽しいこと、嬉しいことが少しでも多くありますように。いつまでも。
本と友人
週末、大学時代の友人と遊んだ。
彼女とは年に2〜3回ほど会う仲で、社会に出てからこの頻度で会うのは、じつは結構すごいことなんじゃないかと思う。
電車を乗り継いで、彼女の住む街まで40分ちょっと。
駅前には大きなスーパーに、商店街。個人商店や、おしゃれなカフェ、レトロな喫茶店、味わい深い大衆居酒屋が軒を連ね「もしもここに住んでいたら、エンゲル係数があがりそうだな」と訪れるたびに思う。街を作るゲームがあったら、きっとこの街をモデルにするだろう。
彼女とはだらだらと近況や最近読んだ本についておしゃべりしながら、散歩をし、喫茶店に入ってまた話すのがいつものコースだ。
でも今回は、お互いに本を贈りあうことになった。私は好きな児童文学を。彼女からは、この本をもらった。
内田百閒の『冥土』を読んだあとのような、ぼうっとする読後感が心地よい小説だった。内容はファンタジーというか、幻想小説のようなのに、雨上がりの土のにおいが漂ってきそうな五感を刺激する文体は、著者の力量なのだろうか。季節と季節の合間に読み返したくなりそう。
余談だけれど、本作の主人公・綿貫が、高校時代に読んでいた漫画『ホリック』の主人公と同じ苗字で(漢字は違うが)、時折マンガの彼の姿で想像してしまったのだった。
良い本をもらったなぁ。
なにかのちから
大通り沿いに住んでいる。夜、車道のオレンジ色の光に照らされた道を歩いていると、いつも心もとない気持ちになる。夜が延々と続くような、過去のかなしい出来事や、寂しさに飲み込まれてしまうような気がするからだ。
会いたい人には会えない。どんなに願っても、偶然を想像しても。
特定の信仰はないけれど、会いたい人には会えないという壁にぶつかるたび、なにか大きなチカラが働いているのではないかと思わずにはいられない。きっと私たちの世界には、そういうチカラがゆったりと渦をまいているのだろう。
いまは会うべきではないのかもしれないと自分に言いきかせながら、夜の道を歩く。
すれ違う人は知らない人しかいない。
だれかの日記
私たちにはきっとわざわざ見に行かなくてもいい、心の中の一部があって、それは嫉妬や他人と比較する気持ちみたいな単純なものでなく、もっと深くて暗いものだと思う。
そんなつらいものを、一子さん(馴れ馴れしいかな)は全部書く。文章はするすると美しいのに、とにかく読んでいて苦しくて痛かった。「わがままだ」「でもこの気持ちわかるな」「ずるいな」「うらやましい」……他人の日記にここまで揺さぶられてしまうが不思議だ。
読みすすめるうちに、私は否他人は、誰のことを裁くことも正しいか間違っているかを判断することなんて絶対にできないのだと当たり前のことに気づいてゆく。
一子さんは本当は存在しない人で、ある1人の女性のショウを見せられているような気持ちだった。なにかを確実に残していくショウ。
彼女を頭ごなしに批判できる人は、どれだけ幸せな人なのだろうと思う。
少なくとも私の一部は彼女に似ていて、一部は全然似ていなくて、ずっと他人なのに妙に近くて苦しかった。
読むのは苦しかったけれど、一子さんも、一子さんのお子さんにも、たくさんの幸せがおとずれるといいなと思う。
最後に一子さんがカウンセリングを受けた先生の漫画。私も大好きで、ちひろさんみたいに自由でありたいと思う。自意識で苦しくなったときに読むと、ちょっと元気になる。
忘れられない夜
「恋愛映画と言えば……」と色々な人にすすめられて、鑑賞。
ウィーンを舞台にしたシンプルなラブストーリーで、イーサン・ホーク演じるジェシーとジュリー・デルピーが演じるセリーヌの会話が中心。
ふだんラブストーリーは観ないのだけれど、本篇を通して思い出していたのは、忘れられない夜のことだった。
ブラッドベリの好きな短編で『生涯で一度の夜』という話がある。その中の一節を思い出した。
人生には一夜だけ、思い出に永遠に残るような夜があるにちがいない。誰にでもそういう一夜があるはずだ。そして、もしそういう夜が近づいていると感じ、今夜がその特別な夜になりそうだと気づいたなら、すかさず飛びつき、疑いをはさまず、以後決して他言してはならない。
きっとジェシーは、その夜に飛びついたのだろうと思った。もちろん彼らが過ごしたのは夜だけではないけれど。
彼らがウィーンの街中で感じた、宵の涼しい風、河の流れる音、誰かが零したお酒の匂い、恋人たちのささやき、見知らぬ家の灯りは、私がいままでどこかで見て、感じ、嗅いだことのある景色を思い出させる。「あぁ、私にも特別な夜があったな」と。ジェシーとセリーヌのようにロマンティックなものではないけれど、その夜は本当にすてきで、やさしく、特別だった。
彼らにとって生涯一度の夜がウィーンの夜であったのならば、続篇を観るのが怖いという思いもある。そんな気持ちにさせるくらい、私の思い出と日常にするりと入り込んできた不思議な映画だった。
- 作者: レイブラッドベリ,Ray Bradbury,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
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自転車泥棒
文芸なのか、エンタメなのか、歴史小説なのか、はたまたSFなのか……自分は何を読んでいたのだろうと呆然とした気持ちになる。タイトルからは想像がつかない、重たさと、長い夢を見ていたようだった。
主人公が、自分の父親とともに消えた自転車の行方を追うなかで、まるで沈没船を引きあげるように、人びとの記憶や歴史がまとわりついて浮かび上がってくる。古道具の収集家、自転車マニア、彼女と別れたばかりのカメラマン、蝶にまつわる小説を送ってくる女。ロールプレイングゲームの、鍵となる人物のように現れては主人公にヒントを与え、無くした自転車へと誘う。そして自転車に近づくほど、物語は台湾のみならず、日本、北ビルマと舞台の裾野を広げ、何度も迷子になった。迷子になりながらも、つねに耳元で、自転車のペダルをまわすカラカラという音が聞こえてくる。
息も絶え絶えに見えた世界は、本当に美しく、ひとつの物語を読むということはこんなすてきなご褒美があるのだとあらためて気づかせてくれるものだった。
全体的に感傷的すぎるぶん、冗長に感じる部分もあるかもしれないけれど、ひとつの物語が見せてくれるにはありあまるくらいの豊かさ(感情的な豊かさかもしれないし、壮大な物語を読んだという満足感でもあるかもしれない)を与えてくれると思う。
そしてこんな豊かな物語を翻訳して、読む機会を与えてくれた天野健太郎さんに深く深く感謝している。だからこそ、昨年末に急逝されたことを本当に悲しく思う。感謝を述べる機会を、永遠に失ってしまったのだから。
ただ、素敵な本の数々を紹介してくださって、本当にありがとうございましたと言いたい。
この小説も本当に好きな一冊。
『自転車泥棒』にも登場した中華商場という商業ビルが出てくるのだけれど、いつも松本大洋さんか田中達之さんに描いてほしいなぁと妄想している。
道に落ちてたもの
いつも横切るマンションの入り口近くに、薄汚れたパンダのキーホルダーが落ちていた。
本当は道の真ん中に落ちていたものを、誰かがマンションの壁に寄りかからせた感じだった。
子供の頃からそういうものを見ると、なぜだか胸の奥がちくちくして、とても悲しい気持ちになった。
街路樹の枝にかけられた人形のついたキーホルダー。公園のベンチの上に置き忘れられたぬいぐるみとか。
寒そうだな、かわいそうだな、ちゃんと持ち主のもとに帰れるのかな……と考えて、とてもさみしい気持ちになるのだった。もう今年30になるのだけれど。
でもそういうふうに思う人が多いから、迷子のその子たちは道のど真ん中ではなく、端っこのほうに寄せておいてあるのだろうか。
今日そのマンションを横切ったら、彼(彼女)はいなかった。
誰かに拾われていたらいいな。